はじめまして。神奈川県で歯科医師をしております、大井美智子と申します。私が大学を卒業し、歯科医師としての一歩を踏み出したのは、今から30年以上前のことです。当時、患者さんから「歯医者さんは、痛くて、怖くて、キーンという音が嫌な場所」と言われるのは、日常茶飯事でした。
先日、若い歯科衛生士に「先生が新人だった頃って、どんな感じだったんですか?」と尋ねられ、ふと30年という年月の重みと、その間に起きた歯科医療の劇的な変化を実感しました。
皆さんが「歯科の進化」と聞いて思い浮かべるのは、レントゲンがデジタルになったり、コンピューターで詰め物を作ったりといった「デジタル化」かもしれません。もちろん、それらは大きな進歩です。しかし、私がこの30年間で最も重要だと感じているのは、もっと「本質的」な部分での進化です。
それは、「いかに歯を削るか」から「いかに歯を守り、育てるか」へと、私たちの思想そのものが大きく転換したことに他なりません。
この記事では、単なる技術の紹介に留まらず、私が現場で見てきた「歯科医療の哲学の変化」を、30年前の記憶と重ね合わせながらお話ししたいと思います。この記事を読み終える頃には、きっと皆さんの「歯医者さん」に対するイメージが、少し変わっているはずです。
目次
景色が一変した「診断」の世界
治療の入り口である「診断」。ここでの変化は、治療全体の質を大きく左右する、まさに革命的なものでした。
フィルムからデジタルへ:レントゲンの進化と被ばく量の低減
私が新人だった頃、レントゲン撮影はフィルムで行うのが当たり前でした。撮影後、暗室で現像液と定着液にフィルムを浸し、像が浮かび上がるのを待ちます。時間もかかりますし、現像の仕方によっては鮮明な画像が得られないこともありました。
しかし現代では、デジタルレントゲンが主流です。撮影後すぐに診療台のモニターで画像を確認でき、拡大したり濃度を調整したりして、より精密な診断が可能になりました。 何より素晴らしいのは、従来のフィルム式に比べて放射線の被ばく量が大幅に低減されたことです。患者さんの身体的負担を大きく減らせるようになったのは、医療人として本当に喜ばしいことです。
「見える化」の革命:歯科用CTとマイクロスコープの登場
30年前には、歯の根の状態や顎の骨の内部構造を三次元で把握することは、夢のような話でした。しかし、歯科用CT(コーンビームCT)の登場で、それが可能になりました。 これにより、インプラント治療の安全性は飛躍的に向上し、複雑な根の治療(根管治療)も、より正確に行えるようになったのです。
さらに、治療そのものの景色を変えたのがマイクロスコープ(歯科用顕微鏡)です。肉眼の数倍から20倍以上に視野を拡大できるため、これまで「勘」や「経験」に頼らざるを得なかった細かな作業が、確実な「視認」のもとで行えるようになりました。
| 機器 | 30年前(1990年代) | 現在 |
|---|---|---|
| レントゲン | フィルム式が主流。現像が必要で、被ばく量も比較的多かった。 | デジタル式が普及。即時確認可能で、被ばく量が大幅に低減。 |
| 三次元診断 | ほぼ不可能。二次元のレントゲン写真から推測するのみ。 | 歯科用CTにより、骨や歯の内部構造を3Dで正確に把握可能。 |
| 治療時の視野 | 肉眼、または拡大鏡(ルーペ)が中心。 | マイクロスコープの普及により、肉眼では見えないレベルでの精密治療が実現。 |
ただ、残念ながらマイクロスコープの普及率は、2022年のデータでまだ10%前後とされています。 これは、機器が高価であることや、使いこなすためのトレーニングが必要なことなどが理由です。 しかし、この「見える」ということが、後述する「歯をできるだけ残す」という思想に、どれほど貢献したか計り知れません。
「削って詰める」から「守り育てる」へ:治療方針の大転換
この30年で最も本質的な変化は、治療に対する「考え方」そのものが変わったことです。
M.I.思想の浸透:できるだけ削らない治療
私が歯科医師になった頃は、「虫歯になったら、再発しないように少し大きめに削って詰める」という考え方(予防拡大)が主流でした。しかし、一度削った歯は二度と元には戻りません。治療を繰り返すたびに、歯はどんどん小さく、弱くなっていきます。
2000年代に入り、M.I.(ミニマルインターベンション)という概念が提唱されました。 これは、「歯への介入は最小限に」という考え方で、虫歯に侵された部分だけを丁寧に取り除き、健全な歯質を最大限残すことを目指すものです。
このM.I.を実現可能にしたのが、次に挙げる接着技術の進歩です。
接着技術の飛躍的な進歩:コンポジットレジンの進化
M.I.の考え方と車の両輪のように進化してきたのが、歯と詰め物を強力に接着させる技術です。 30年前も「コンポジットレジン」という白いプラスチックの詰め物はありましたが、接着力が弱く、変色しやすいため、使える範囲は限られていました。
しかし、日本の研究者たちの貢献もあり、接着剤の性能は劇的に向上しました。 今では、歯と一体化するように強力に接着するため、虫歯の部分だけを削って詰める治療が可能になったのです。 金属の詰め物のように、はめ込むために健康な部分まで削る必要がなくなりました。これは、歯の寿命を延ばす上で、計り知れない貢献です。
「予防」こそ最高の治療:フッ素と定期メンテナンスの重要性
30年前、歯医者は「痛くなったら行く場所」でした。しかし、今は「痛くならないために行く場所」へと、その役割が大きく変わりつつあります。
スウェーデンなどの歯科先進国に比べ、日本の予防歯科への意識はまだ低いと言わざるを得ません。 しかし、この30年で「治療よりも予防が大切」という考え方は、多くの歯科医療者に共有されるようになりました。
その柱となるのが、以下の二つです。
- フッ素の応用: 歯質を強化し、虫歯菌の活動を抑えるフッ素の有効性が科学的に証明され、歯磨き粉への配合はもちろん、歯科医院での定期的な塗布が一般化しました。
- 定期メンテナンス(プロフェッショナルケア): 歯科衛生士による専門的なクリーニングで、自分では落としきれない歯垢や歯石(バイオフィルム)を除去し、虫歯や歯周病のリスクを管理します。
「自分の歯を自分で守る」意識を患者さんと共有し、二人三脚で口腔の健康を育んでいく。これこそが、現代の歯科医療が目指す姿なのです。
失った歯を取り戻す選択肢の広がり
残念ながら歯を失ってしまった場合の選択肢も、この30年で大きく広がりました。
30年前はまだ特殊だったインプラント治療の現在地
私が新人だった頃、インプラント治療はまだ非常に特殊な治療で、行っている歯科医院も限られていました。しかし、チタンと骨が結合する「オッセオインテグレーション」という現象が発見されて以降、研究と技術開発が進み、今や歯を失った際の主要な選択肢の一つとなっています。
特に、先述した歯科用CTによる精密な診断や、コンピューター上で手術のシミュレーションを行うガイデッドサージェリーといった技術の登場により、その安全性と確実性は格段に向上しました。
入れ歯・ブリッジも進化している
インプラントだけではありません。従来からある入れ歯やブリッジも、材質や設計の面で大きく進化しています。
- 入れ歯: 金属のバネが見えない審美的なもの、薄くて丈夫な金属床のもの、磁石で固定するものなど、患者さんの希望や口の状態に合わせて多様な選択肢が生まれました。
- ブリッジ: 従来の金属だけでなく、ジルコニアなどのセラミック材料を使うことで、天然の歯と見分けがつかないほど自然で、かつ丈夫なブリッジを作れるようになっています。
口は全身の鏡:口腔と全身疾患のつながりへの理解深化
この30年で最も学術的に進歩し、私たちの意識を変えたのが「口腔の健康が全身の健康に深く関わっている」という事実の解明です。
歯周病が及ぼす全身への影響
かつて歯周病は「口の中だけの病気」と考えられていました。しかし、近年の研究で、歯周病菌や、歯ぐきの炎症によって生じる物質が血流に乗って全身を巡り、様々な病気のリスクを高めることが分かってきました。
- 糖尿病: 歯周病は血糖コントロールを悪化させ、糖尿病の合併症のリスクを高めます。逆に、糖尿病は歯周病を悪化させるという、相互に悪影響を及ぼす関係にあります。
- 心血管疾患: 歯周病菌が血管内に入り込み、動脈硬化を促進することで、心筋梗塞や脳梗塞のリスクを高める可能性が指摘されています。
- 誤嚥性肺炎: 高齢者において、歯周病菌を含む唾液が誤って気管に入ってしまうことで起こる肺炎です。
- その他: アルツハイマー型認知症や関節リウマチ、早産・低体重児出産などとの関連も研究されています。
「オーラルフレイル」という新たな視点:高齢者歯科の重要性
「オーラルフレイル」という言葉をご存知でしょうか。これは、加齢に伴うささいな口の機能の衰え(滑舌の低下、食べこぼし、むせなど)が、心身の機能低下(フレイル)の入り口になる、という考え方です。
口の機能が衰えると、食事が偏り低栄養になったり、会話が億劫になり社会的に孤立したりと、全身の衰えに直結します。 人生100年時代と言われる今、生涯にわたって自分の口で美味しく食事をし、楽しく会話をするために、高齢期の口腔ケアの重要性はますます高まっています。
まとめ:技術の進化は「哲学」を進化させるために
こうして振り返ってみると、この30年間の歯科医療の進化は、まさに目覚ましいものがあります。
- 診断は、二次元から三次元へ、肉眼から顕微鏡レベルへと深化しました。
- 治療は、「削る」から「守る」へと哲学が転換し、M.I.と接着技術がそれを支えました。
- 概念は、口の中から全身へと広がり、口腔ケアが全身の健康を守るという視点が常識となりました。
私が新人だった頃、歯科医師の仕事は「虫歯という穴を、いかに上手に埋めるか」という職人的な側面が強かったように思います。しかし今は違います。患者さん一人ひとりの生活背景や将来を見据え、科学的根拠に基づきながら、「どうすれば、この方の歯を一本でも多く、一日でも長く健康に保てるか」を共に考えるパートナーとしての役割が求められています。
デジタル技術の進化は、あくまでその哲学を実現するための「道具」です。大切なのは、その道具を使って何を成すか、という私たちの心構えなのだと、日々感じています。
私のささやかな趣味は園芸なのですが、元気な野菜を育てるには、良い土壌を作ることが何よりも大切なのだそうです。口腔内の環境を整えることも、それと似ているのかもしれません。
この記事が、皆さんと歯科医院との関係を、より良いものにする一助となれば幸いです。どうぞ、信頼できるかかりつけの歯科医を見つけ、ご自身の口腔の健康を、そして全身の健康を守り育てていってください。