通院が難しくなったら知ってほしい。訪問歯科診療でできることと頼み方

診療室のドアが開いて、いつものご夫婦が入ってこられる。
そんな当たり前の光景が、ある日ふつりと途切れることがあります。
「母を車に乗せるのが、私ひとりではもう無理なんです」と娘さんから電話をいただいて、事情を知る。
歯科医師として30年以上、そういう場面を何度も経験してきました。

こんにちは、歯科医師の大井美智子です。
入れ歯が合わないまま半年を過ごされ、体重が5キロ落ちてから再会した患者さんもいらっしゃいます。
もっと早く「歯医者のほうから伺えますよ」とお伝えできていたら、と悔しく思うのです。
この記事では、訪問歯科診療で何ができるのか、費用はいくらか、どこに何と言って頼めばいいのかをご説明します。

訪問歯科診療とは、どういう仕組みなのでしょう

訪問歯科診療は、歯科医師や歯科衛生士がご自宅や施設へ出向いて、保険診療として歯の治療や口腔ケアを行う仕組みです。
特別なサービスではなく、健康保険証で受けられるごく普通の歯科医療だとお考えください。

対象になるのは「通院が困難な方」

条件は、病気や加齢、障害などによってご自身で歯科医院に通うことが難しい状態であること。
それだけです。
要介護認定は必須ではありませんし、寝たきりの方に限られるわけでもありません。

実際にご利用が多いのは、こういった状況の方々です。

  • 足腰が弱って、付き添いがあっても外出が大きな負担になる方
  • 認知症があり、診療室でじっと座っているのが難しい方
  • 脳梗塞の後遺症などで、車椅子での移動に介助が必要な方
  • 在宅酸素や胃ろうなど、医療的なケアを続けながら生活されている方

「頑張ればなんとか通えるかもしれない」という段階の方も、遠慮なくご相談ください。
無理を重ねて転倒し、骨折から寝たきりへ、という道筋を何度も見てきました。

来てもらえる場所と、距離の決まり

伺えるのはご自宅だけではありません。
特別養護老人ホームや有料老人ホーム、グループホーム、サービス付き高齢者向け住宅にも訪問します。
入院中の病院は条件が限られるので、まずは病院の相談員さんに聞いてみてください。

もうひとつ、距離の決まりがあります。
保険診療の訪問は、歯科医院から患者さんのお住まいまで、原則としておよそ16キロ以内と定められています。
これを超えると保険が使えないため、「もっと近い歯科医院を探しましょう」というご案内になります。
車で30分の名医より、10分で駆けつけられる歯科医院のほうが、訪問診療では頼りになります。

訪問歯科診療でできること、できないこと

「往診なんだから、痛み止めを出して様子を見るくらいでしょう」と思われがちですが、実際はもっとしっかりした治療ができます。

治療の中身は、外来とほとんど変わりません

歯科医師は持ち運びできる小型の診療ユニットを積んで伺います。
削るための機械も、水を吸うバキュームも、携帯型のレントゲンも入っています。
虫歯を削って詰める、歯石を取る、根の治療をする、ぐらついた歯を抜く。
こうした処置は、ご自宅の布団の上でも可能です。

入れ歯を新しく作る、割れたものを直す、合わないところを調整する、いずれも訪問で完結します。
型取りから完成までは、通常数回の訪問が必要です。

「治す」より大事な、口の中を清潔に保つ仕事

訪問診療のもうひとつの柱が、歯科衛生士による専門的な口腔ケアです。
単なる歯みがきの代行ではありません。

高齢の方の肺炎の多くは、唾液や食べ物のかけらが誤って気管に入って起こる誤嚥性肺炎です。
特別養護老人ホームの入所者417名を対象にした日本の研究では、専門職による口腔ケアを続けた群で、肺炎の発症も発熱の日数も肺炎による死亡も有意に減ったと報告されています(Oral care reduces pneumonia in older patients in nursing homes)。
口の中の細菌を減らすのは、命を守る仕事でもあるのです。

土いじりが趣味なもので、私はいつも口の中を鉢植えの土にたとえます。
薬で全部を消毒すればいいわけではなく、日々手を入れて菌のバランスを整えるしかありません。

最近増えているのが、噛む・飲み込む機能の評価です。
むせが増えた、食事に時間がかかるようになったといった変化があれば、舌の動きを診て食事の形態や姿勢について助言できます。

訪問では難しいこと

正直にお伝えすると、限界もあります。

できること難しいこと
虫歯・歯周病の治療、抜歯全身麻酔が必要な処置
入れ歯の作製・修理・調整インプラント手術
歯石除去、専門的な口腔ケア大がかりな外科処置、矯正治療
飲み込みの評価と助言CTなど大型機器を使う検査

血が止まりにくいお薬を飲んでいる方の抜歯など、リスクの高い処置は病院の歯科口腔外科へお願いすることもあります。
そこは無理をしない、というのが訪問に携わる歯科医の共通認識です。

費用は、どれくらいかかるのでしょう

医療保険と介護保険、二本立てになります

治療そのものは医療保険です。
自己負担の割合は外来と同じで、75歳以上の方は原則1割(一定以上の所得がある方は2割か3割)。
これに歯科医師が訪問することへの費用が加わるため、同じ治療を診療室で受けるより総額は少し高くなります。

要介護・要支援の認定を受けている方には、別に介護保険の「居宅療養管理指導」が適用されます。
ご家族や介護職員にケアの方法を助言するための費用で、歯科医師は月2回まで、歯科衛生士は月4回までが上限です。

自己負担の目安と、交通費の扱い

金額は治療内容と負担割合で変わりますが、1割負担の方で1回あたりおよそ500円から1,500円前後に収まるケースが多いです。
入れ歯を新しく作る、抜歯をするといった処置が入れば、数千円になる月もあります。
診療報酬の点数は2年に一度見直されるため(令和8年度診療報酬改定について|厚生労働省)、初回の訪問前に「うちの負担割合だと月いくらくらいですか」と率直に尋ねてください。

保険診療の範囲内で伺う場合、交通費や出張料を別に請求することは認められていません。
「特別料金」「訪問手数料」といった名目で現金を求められたら、その場で内容を確認してください。
医療費控除の対象になりますので、領収書は必ず保管しておきましょう。

頼み方は、大きく3つのルートがあります

制度は整っているのに、入り口が知られていない。
これが訪問歯科の最大の課題だと思っています。

かかりつけの歯科医院に電話する

いちばん確実なのは、これまで通っていた歯科医院に連絡することです。
その医院が訪問診療をしていなくても、近隣で対応している医院を紹介してもらえることがほとんど。
治療歴が引き継がれる利点は、想像以上に大きいものです。

ケアマネジャー、地域包括支援センターに相談する

介護保険を利用中の方なら、担当のケアマネジャーが最短ルートです。
ケアプランに組み込む形で、手配まで進めてもらえます。
まだ介護認定を受けていない場合は、市区町村ごとに置かれている地域包括支援センターへどうぞ。

歯科医師会の在宅歯科医療連携室を使う

各都道府県や郡市区の歯科医師会には、通院が難しい方のための相談窓口が置かれています。
地域の事情を踏まえて、訪問可能な歯科医院を探してくれる窓口です。
連絡先は「お住まいの地域名+在宅歯科医療連携室」で検索するか、日本歯科医師会のお口のなんでも相談から地域の窓口をたどれます。
訪問診療の基本については、日本歯科医師会の歯科訪問診療のページも参考になります。

電話で伝えると話が早い5つのこと

いざ電話をすると、何から話せばいいか分からなくなるものです。
次の内容をメモにして、手元に置いてからかけてみてください。

  • お住まいの住所(訪問できる範囲かどうかの判断に使います)
  • 通院が難しい理由と、ご本人の状態(寝たきり、車椅子、認知症など)
  • 困っている症状(痛み、入れ歯が合わない、口臭、食べられない等)
  • 介護認定の有無と、かかりつけの内科医
  • 訪問時に立ち会える曜日と時間帯

言い方は、たとえばこんな形で十分です。

「89歳の母のことでご相談です。要介護3で、自宅で暮らしています。入れ歯が当たって痛むようで、ここ2週間ほど食事の量が減っています。通院は難しい状態です。訪問診療をお願いできますか」

これだけ伝われば、あとは歯科医院のほうから必要なことを聞いてくれます。

初回訪問までの流れと、備えておきたいこと

依頼の電話から初回の訪問までは、早ければ数日、混み合っていても2週間ほどが目安です。
痛みや腫れがあるなら、その旨をはっきり伝えれば優先してもらえます。

当日までに用意しておくもの

保険証と医療証、介護保険証、お薬手帳。
この3点があれば、ほぼ問題ありません。
使っている入れ歯は、割れた破片も含めてすべて出しておいてください。

場所は、ご本人が普段過ごしているベッドや椅子のそばで結構です。
広い部屋を空ける必要も、片づける必要もありません。
畳一畳ほどの空きと、コンセントが一つあれば診療できます。

初回にやること、そのあとの選び方

初回はいきなり削ったりせず、口の中全体を診て、体の状態やお薬を確認し、どこから手をつけるかの計画を立てます。
その場で治療方針と回数、費用の見通しを説明しますので、納得できなければ断っても構いません。

一度頼んだら最後まで縛られる、ということもありません。
入れ歯が落ち着いた時点で終了してもよいですし、月に1度の口腔ケアだけを続ける形も選べます。

まとめ

最後に、要点を整理しておきます。

  • 対象は「通院が難しい方」で、介護認定がなくても利用できる
  • 虫歯治療も抜歯も入れ歯作りも、自宅や施設で保険診療として受けられる
  • 費用は1割負担なら1回500円から1,500円ほどが目安で、交通費の別請求はない
  • 依頼先はかかりつけ歯科医院、ケアマネジャー、地域の在宅歯科医療連携室の3つ

好きなものを自分の口で食べられるかどうかで、その人の一日の表情はまるで変わります。
私はそれを、診療室でも、ご自宅の畳の上でも、何度も見てきました。
「もう歯医者には行けないから」と諦めているご家族が、この記事を読んで一本の電話をかけてくださったなら、それが何よりです。
歯医者は、こちらから伺うこともできるのですから。